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京都と岩手のつながり

part1 南部馬(奥州馬)の歴史

南部馬(奥州馬)は、東北南部地方で飼われていた和種馬です。

岩手県平泉と強い繋がりを持つことになった源義経は、幼い頃は京都の鞍馬山で過ごしました。

源平合戦で源義経が活躍した「一之谷の戦い」では、『吾妻鏡』に記載されている「鵯越の逆落とし」という場面があります。

義経は少ない手勢を率いて都落ちした平氏の陣営の近くまでやってきますが、

平氏は一ノ谷の峻しい山腹に陣を張っていました。

しかし、敵は絶対に攻めてこられないだろうと平氏が踏み背にした断崖絶壁を、

義経が乗る馬の太夫黒は駆け下り、奇襲に成功したのです。

その馬こそ、伝承にある南部馬(奥州馬)の「太夫黒(たゆうぐろ)」だったのです。

義経を乗せて活躍する太夫黒は日本史に多く登場しました。

南部馬(奥州馬)の特徴

《大きく馬格が良い》
《剛 脚》
《気性が良く、扱いやすく従順》

 

※背景画像は「千厩・太夫黒・馬っこの会」より使用許可をいただいております

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part2 漆

                                    京都にある国宝・重要文化財の保存           

京都の国宝や重要文化財などの大切な国の宝を後世に伝えるには修繕が必要不可欠です。

その修繕には国産漆が使用されており、岩手県の漆が多く使用されています。

日本国内で使用される漆のうち、国内産はわずか5%足らず。
 
元々、漆の産地は漆器の産地と同じ地が多かったのですが、年々減り、現在では1府9県となっています。

国産漆の生産地は、岩手県がトップとなり、全国の75%を占めています。

国産漆の生産量

栃木県
6%
岩手県
75%
茨城県
15%
その他
4%
<様々な研究・実証>

岩手工業技術センター
衝撃破砕技術を用いた採取可能な機械を導入

岩手生物工学研究センター
漆生産量アップのため、種子から育て発芽率を高める研究を進めています。発芽率40~50%に!

岩手県林業技術センター
種子の発芽率を調査し、「糖水選」は「塩水選」よりも発芽率を高められると実証。

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part3 黄金の都 平泉

藤原氏一族と中尊寺・金色堂

~令和6年 中尊寺建立900年を迎えました~

初代、藤原 清衡(ふじわら の きよひら)は、平安時代後期の武将で奥州藤原氏初代当主でした。

天保3年(1083年)後三年の役以降、陸奥国(現在の東北地方のうち、山形・秋田県を除いた広大な地域)の奥六郡経営を行い、並行して関白に名馬を贈るなどし京の藤原氏と交誼を持ち自らの地位を固めていきました。

嘉保年中(1094年 – 1095年)頃には、磐井郡平泉に居を移して政治文化の中心都市の建設に着手し、1108年には中尊寺造営を開始して壮大な中世都市、平泉の原型をつくり、奥州藤原氏4代100年の栄華の基礎を築きました。

中尊寺造営の際は優れた技術者を京から呼び寄せ仏像や仏具、仏堂の内陣(内部)装飾、経文などを揃えていき、なかでも、金色堂内陣装飾や金銅華鬘、金と銀で経文を写した紺紙金銀字交書一切経などを見れば、平泉で当時の最高技術が使われたことが分かります。

二代目、藤原基衡(もとひら)は平泉に毛越寺の建立しました。そこで、毛越寺に納める仏像を、京きっての仏師、運慶に依頼しました。運慶への報酬は、金、名馬やあざらしの皮など、陸奥の名産が多かったそうです。

運慶の作り上げた仏像があまりに素晴らしいため、鳥羽法皇は運慶の作品を京から持ち出すことを禁じてしまいました。そこで基衡は、法皇の周辺に働きかけて、なんとか毛越寺に運んだのだそうです。

三代目、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)は、豊かな財力を背景に父の路線を引き継いで中央政界や寺院への寄進を行い、曾祖父や祖父の代にあったような朝廷からの政治・軍事的介入を許さず、あくまでも独立した勢力として陸奥の平和を守ろうとしました。

結果、朝廷から従五位下鎮守府将軍へ、その後には陸奥守に任じられましたが、その一方で中央の政治には一切介入せず、静観の姿勢を守りました。

当時、平泉は平安京に次ぐ人口を誇っていたとされ秀衡も寺院の造営に熱心に取り組み、
京都の平等院を上回る規模の無量光院を建立し、最盛期の平泉は黄金郷とも称されるようになりました。